
| ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● -------------------------- ◆ 第一代 徳川家康 -------------------------- 武家社会では、源平の時代から武勇などで名を残した先祖の名の一字を用いたり 祖父や父親から一字をもらって。由緒ある家柄や血筋を誇示しようとしました。 また、幼名・元服時の実名、自立したときの名など、生涯に幾度も名を変える ことは珍しくありませんでした。徳川家康も、そうでした。 家康は、天文11年(1542)12月26日、三河岡崎城主、松平広忠の嫡男 として生まれました。幼名は竹千代です。 このとき広忠17歳、母である於大(おだい)は15歳。その前年1月に結婚し たばかりの若い夫婦でした。松平家では男子誕生に歓声をあげたのでした。 ところが6歳の時、織田信秀(信長の父)の人質になり、さらに2年後、今川義元 の人質となりました。義元の人質として駿府(静岡市)にいた14歳のとき元服し 幼名の竹千代から、松平元信と改名しました。 これは義元から「元」の一字をもらった名です。その後、祖父清康の「康」を もらい、元康と改めました。 しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで、義元が信長の軍勢に敗れて戦死 したのち、永禄6年には義元からもらった「元」の字を捨て、家康と改名しました。 長年の今川氏への服従関係から脱し、独立することを意思表示したわけです。 その後まもなく、家康は姓まで変え、松平から徳川を名乗るようになりました。 なぜ家康は、徳川に変えたのでしょうか? 松平氏の始祖は親氏(ちかうじ)で、三河国賀茂郡松平郷に起こった豪族でした。 この親氏を初代として、泰親・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠と続き、 家康で9代目になります。 家康は岡崎城に帰ったあと、中央政権の足利幕府によって、三河の支配権を認め られましたが、周辺は駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏、尾張の織田 氏らの強豪に取り囲まれています。その中で領国支配の権威付けと、独立国とし ての威厳を保つために、家康は朝廷に三河守護職に任じて欲しいと申請しましたが 朝廷は「家康の先祖に国守となった者がいないし、氏素性もはっきりしない」との 理由から、これを拒否しました。 そこで家康は、摂関家の近衛前久、神祇職の吉田兼右に多額の献金をし、奔走して もらい、氏素性を整えて、永禄9年、朝廷から姓を徳川に改めることを許され 同時に三河守に任じられたのです。 この徳川氏に改姓した経緯ですが、家康から多額の献金を受けた吉田兼右は、方々 探し回り、万里小路家の古い記録から系図を見つけたのです。それによりますと 徳川氏は、もとは源氏で、惣領家は途中で藤原になった家系だったということです が真偽はわかりません。 ともかく、兼右は、その系図の体裁を整えて清書し、近衛前久に渡しました。 前久は、これを天皇に提出、徳川への改姓が許されたのです。 家康は、この、もとは源氏であるということを主張するために徳川に改姓したので しょうか。じつは戦国時代、源平交代説が信じられていました。 平清盛は武家として初めて太政大臣となり、覇権を手にしましたが、やがて源頼朝 が平氏政権を打倒して鎌倉幕府を開き、1192年に征夷大将軍になりました。 しかし、三代実朝のとき、執権北条氏が幕府の実権を握ったのです。 北条氏の本姓は平氏です。この北条氏は足利氏に滅ぼされてしまいます。 足利尊氏は鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開きました。 足利氏は1146年、源義家の孫の義康が足利荘(足利市)の代官となり、足利を 名乗りました。 このように、平氏→源氏→平氏→源氏と、交互に覇権を握ってきたわけです。 しかも、源氏だけが幕府を開き、征夷大将軍になってきたのです。 その後、織田信長が登場し、将軍足利義昭を倒します。信長は天下人になると それまで藤原氏を称していたのに「自分は平重盛の末裔」と言い出し、自ら平氏を 名乗りました。ですが、信長は将軍には なれませんでした。 豊臣秀吉も当初は木下を名乗り、ついで羽柴、平と改姓しました。平氏を名乗った のは主君信長が名乗っていたからですが、信長の死後、信長を超える権威を求めて 源氏の名を手に入れようとしました。先に言ったように、征夷大将軍は源氏以外で 任ぜられた例がないからです。 このようなことから、家康も源平交代説の影響を受けたと思われます。 そして、先祖が住んでいた徳河郷の地名から、徳川と改姓したのです。 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 【マガジン】徳川家15人の将軍、歴史秘話 【発 行 者】慎也 【 H P 】kawaharashinya@infoseek.jp 【 ご意見 】http://kawaharashinya.hp.infoseek.co.jp/index.htm ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● |
| <ご挨拶> みなさん、歴史はお好きですか? 私は日本史が大好きで、特に江戸時代徳川将軍に、すごく興味を持っています。 江戸に幕府を開いた初代家康から、幕末の激動期に最後の将軍となった15代 慶喜まで、徳川将軍は15人おり、その治世は264年におよびます。 将軍というのは、正しくは征夷大将軍と言い、もともとは軍事指揮官、すなわち 武家政治を主宰する武家の棟梁のことでした。 家康は、関ヶ原の戦いに勝ち、覇権を握って江戸に幕府を開きましたが それにもかかわらず、朝廷から将軍に任命されるという手続きを踏みました。 それは、徳川政権を全国支配の政権として、広く認知させるためでした。 いわば、朝廷の権威を利用して合法化した、といっていいでしょう。 その後、家康は我が子秀忠を二代将軍につかせましたが、これによって将軍職 は徳川家の世襲であるという了解が、成立していったのです。 したがって、朝廷も将軍継嗣については、異議を唱えることもなく、幕府の 意向を尊重し、将軍継嗣とされた者を承認して、将軍宣下の儀式を行ったのです。 徳川政権が長期にわたって続いた理由は、いろいろありますが、その一つは 大名統制を過酷なまでに行い、支配権を強化したことでしょう。 江戸前期の百年間は、大名つぶしの嵐が吹き荒れていたのです。 大名配置も、手を結びそうな大名は隣接して置かず、むしろ仲の悪い大名同士を 近くに置き、譜代大名をうまく配置するなど、相互監視が機能するように考えら れていました。こうした幕府体制は、家康・秀忠・家光の三代にわたって基礎が 築かれ、その後、四代家綱から八代吉宗にかけて、形が整いました。 最後の将軍、慶喜までの15人の男たちが、どのようにして将軍の座に座り、 幕政をどう運営していったのか、興味は尽きないところです。 特に将軍が交代する際に起こる継嗣抗争劇は、陰謀と暗闘が渦巻き、人間の心に ひそむ欲望の暗部を見せつけています。 そうした視点から、徳川将軍の地位についた15人の男たちの人物像を時代背景 とともに探って、人物をめぐる逸話を紹介していこうと思います。 どうか、宜しくお願いします。 |

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